がばり、と音を立てそうな勢いで上体を起こした。
今にも何かを叫ぼうとするように口は開けられ、右手は何かを捕まえようとするように伸ばされている。
「あれ?」
姫発はわきゃわきゃと、伸ばされた右の手の指を意味もなく動かした。
何を捕まえようとしていたのか、直前まで見ていた夢を反芻して、姫発は大声を出した。
「あーっ!!」
そして、慌てて部屋の中央に身体を向ける。
格子を下ろしたままの薄暗い部屋の中、四畳半の畳の上で薄い掛布にくるまっている小さな身体に焦点が合った。
思わず大きなため息を吐いて安堵する。
と、自身の身体の異変に気がついて、姫発はまたもや大声を出した。
「あーっ!!!」
腹の鈍痛は相変わらずであったが、昨日の死にそうなほどの痛みと苦しみがうそのように消えていた。
「おい、太公望!」
寝台から元気よく立ち上がると、畳の上で背を向けて丸くなっている太公望の肩を揺さ振る。
「ちょっと、どうなってんだよ!おい!」
乱暴に揺さ振られて、太公望は不機嫌そうに眉を寄せてうっすらと瞼を上げる。
そして寝起きの人間の耳元で無遠慮にわめく男に向かって一言。


「・・・・・・うるさい」


太公望の全身から発せられる黒い気に恐れおののき、姫発の動きがぴたりと止まる。
それをいいことにもう一度寝直そうと白い掛布に潜り込む太公望に、今度は恐る恐る尋ねた。
「あのー、・・・俺って死にかけてなかったっけ?」
どこまでも沈んでいきそうな重い脱力感と、どこかへ飛んでいきそうな奇妙な浮遊感が苦しみ、痛みとごっちゃになったあの感覚は、絶対に只事ではなかった。思い出して、姫発は身震いする。
「・・・たわけ」
だがしかし、姫発に与えられた返事はまたもやそっけなく冷たいもの。
「おぬしが勝手に死ぬだの何だのとわめいておっただけではないか。
それに付き合わされたおかげで、わしは寝不足だ。もう少し寝かせろ」
動くのもおっくうと、顔を掛布から出すことさえしない。
姫発は釈然としない様子でその場に座ったまま動かなかった。
口を開いて何か言いかけた姫発に、絶妙な時柄で掛布から太公望が声をかける。
「早く支度をせい。朝見が始まる時刻だ。
今朝はおぬし不在でも始まるぞ。昨日は城中大騒ぎであったからな。万一のときに備えて、今後について決めねばならぬと臣らは早くから集まっているだろうに」
その言葉にしぶしぶながら姫発は身支度をすませ、すでに日課となった、太公望特製の薬湯を飲むために鍋のところへ行く。
一日三回欠かさず飲み続けたおかげで、どろりとした何とも形容しがたい色の液体は鍋の底の方にほんの少し溜まっているだけだった。
勺で掬うことはせず、鍋を傾けて直接碗に流し込む。
薬湯は碗の中に計ったようにちょうど一回分を満たした。
「おい、これなくなっちまったぜ」
ほんの少しの期待を込めて報告する姫発であったが、
「安心しろ、また作っておいてやる」
との言葉に、うなだれておとなしく薬湯をすする。
「早くせんと、そろそろ次の王が決まっておるやもしれんぞ」
ぐずぐずといつまでも薬湯を飲み終わらない姫発に、掛布の中からくぐもった声で急っつく。
「うわっ、やべ!」
慌てて寝室を出かけて、姫発はふっと振り向いた。
「なあ、何かほしいもんある?」
太公望はそれには答えず、掛布から片腕だけ出して小さな手のひらを犬でも追い出すように縦に振る。
「さっさと行け」
その横着ぶりに、姫発は「へいへい」と肩をそびやかしつつ出ていった。





その小さな手がいつのまにかに横に振られていることに気づくことなしに。














しばらくは外で朝を告げる鳥の声だけが聞こえていた部屋だが、やがてもぞもぞと衣擦れの音がして、何かに耐え切れなくなったように太公望が掛布から顔を出した。
「いい加減出てこんか」
いささかふてくされた口調で隣室に声を掛けると、当たり前のように楊ゼンが入室してくる。
「武王に仙界の力を使われましたね」
自身の覗きは棚に上げて開口一番たしなめる楊ゼンに、あくまで太公望は空呆けてかわす。
「わしは何もズルしてはおらんぞ、楊ゼン。
現に上には何の動きもないではないか」
だが、楊ゼンは追ってきた。
「確かに、あなたの発する気は常人のレベルでしたよ。
でもね、その気を一晩中放出し続けられる只人がどこにいます?えっ?!」
軽くにらむ楊ゼンの視線から逃れて、太公望は明後日の方向を向いて吹けない口笛を吹いていたが、何の反応のないことにそっと隣の男の顔を盗み見る。
楊ゼンは変わらず太公望を見ていたが、歪められた柳眉の下にある、両の青玉の中ではいくつもの感情が押し寄せているように揺れてきらめいていた。
その美しいまでの激しさに太公望が思わず魅入っていると、だんだん打ち寄せる感情はさざなみのように穏やかになり、やがて引いていった。
最後に残された感情の光を確かめる前に、太公望はそっと引き寄せられる。

「僕は武王がすごくうらやましく思いましたよ」
太公望は身じろぎもせずに、そのまま従順に抱かれていた。
「今このままあなたが手に入るのならば、僕は永遠の生命など少しも惜しくはないのです。
でも、僕は僕だから。・・・・・・僕はどうあがいたって彼にはなれないし、彼だって僕にはなれないんだから・・・・・・」
ゆっくりと楊ゼンの身体が、太公望から離れていく。
しばらくうつむけていた顔をゆっくりと上げると、再び青の双眸が現れた。
「だから仕方がありません。僕は彼には出来ない僕のやり方で・・・・・・長期戦でいかせてもらいます」
吹っ切れたようにそう言って、何時ものように自信たっぷりの笑みを太公望に向ける。
どんなに覗き込んでも、もう瞳の中には敬愛以外の光は、奥底に沈められて見止められなかった。
「あ、そうそう。そろそろ武吉くんと四不象があなたを探しに下りてくるかもしれませんよ」
押し黙ったままの太公望に、袖から孝天犬を出しながら、そう言って楊ゼンは意地悪げに笑った。それは彼のささやかな仕返しの意味もあるのかもしれない。
予想どおり「なにーっ!」と叫び声を上げて、太公望はあたふたと身近を整理し始める。
「わしが生きておること、あやつらに言うでないぞ! 楊ゼン」
強く念を押す甲高い声を背に受けて、くすくすと笑いながら楊ゼンは帰っていった。














誰よりも無私で仕える忠獣と弟子を罵るのをやめて、太公望は目を細め、蒼空に青い影が溶けていくのをただ仰ぎ眺めていたが、小さくうなずくと、窓から離れた。
そして懐紙を取り出すと、卓子に備え付けてある筆を取り、さらさらとそれに書き付けて置いた。
くるりと宙に円を描いて、その中心を蹴ると、描いた円の通りに空間が開く。
その中に太公望は手際よく釜を放り込み、菓子や果物を放り込み、畳を放り込んだ。
わざとらしく手をはたいて、返し忘れた白い肩布を羽織ると、自身も片足を突っ込み、そこでふと振り返った。


「ではな、姫発」


黒い空間が静かに口を閉じる。










格子が開けられた窓からは、自由な風が入ってきて、かすかに残る香さえも一緒に連れて出ていってしまった。

後には何も残らない。


遠くから急ぎ近づく足音を迎え入れるものは、“彼の部屋”であった。



























「帰っちまったんだなぁ」
諸臣らが退出した朝見の間で、何するともなく姫発は頬杖を突いて玉座に座っていた。
もっと聴きたいことがあった。話したいことがあった。そして、もしかしたらこのまま・・・という期待も。
「武王」
姫発が盛大に洩らしたため息に重なるように、澄んだ高い声が自分を呼んだ。
だるそうに顔だけで振り返ると、邑姜が背筋を正して近づいてくるところだった。
彼女は姫発の眼の前まで来ると、見下ろさないように膝立ちし、もう一度「武王」と呼んだ。
「太公望さんには及びませんか、私もあなたのために微力ながらこれからもお手伝いさせていただきます」
凛とした容貌にやさしさをにじませて、拝する。
年下の少女にまで気を遣わせてしまう自分は、よっぽど情けない顔をしているのだろう。
百姓の上に立つ王がこんな事ではいけない。「よしっ!」と気合いを入れて眼前の少女に手を差し出す。

「これからもよろしく頼むぜ、邑姜」

生気が戻った姫発に、邑姜は顔を輝かせて手を取り、立ち上がった。そして後ろに向かって指を鳴らす。
その合図とともに静々と女官が二人、大きな鍋を掲げ持ってきた。
忘れもしない、この匂いは・・・・・・!
蓋を開けると何とも形容しがたい色の液体が、未だふつふつと音を立てている。
女官の一人が碗を持ち、もう一人が匙でたっぷり一杯掬ってその中に流し入れた。
邑姜に前を立ちふさがれて逃げ場のない姫発は、ただ脂汗を出して竦んでいる。


「あの人には、あなたの健康管理もしっかりと任されました」



女官から受け取った碗を両手で差し出して笑う少女の顔は、どっかの誰かの笑顔とそっくりだった。




















――了





−−−

「あとしまつ」ようやく完成。
リク内容は、

○封神計画終了後
○凛々しい伏羲
○太公望に不安を洩らす武王
○伏羲に複雑な感情を抱く楊ゼン
○武王に焼き餅を焼く楊ゼン

ううっ、RINサマ申し訳ありません。
いつのリクだ!って感じです(冷汗)
罵られても、公道で後ろ指さされてもねこは弁解のしようもございません(土下座)

書いているうちに、楊ゼンさんは太公望のことをどう思っているんだろうと散々悩みました。
面と向かって指摘されたら執着がないとはいいきれないけれど、わざわざ蒸し返すほど子どもじゃないし、相変わらず太公望には惹かれている。
だからなかったこととして接してくれれば、自分も今まで通り付き合うつもりなのに、うちの太公望さんは自分からほじくり返しちゃった・・・。
ちょっとマゾなのかしら、うちの太公望さん。てっきりサドだと思ったのに(汗)
いや、ただ、楊ゼンさんに「僕は変わらずあなたを慕っています!」と言ってほしくて、しかも言ってくれるとわかっていての言動なのかも。
ワガママですね、楊ゼンさんよりワガママです。

これを書きながら、別バージョンが出来てしまいました。
そっちは短いのでそれをRINサマに送ろうと思ったのですが、リクを一つ充たしていないんです。
贈り物がこんなに長くていいんでしょうか?
すみません、RINサマ。








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